水夢骨董堂細腕繁盛記外伝 『花影追憶』 |
私は薄暗い独房の中で、私自身の物語を思い出していた。記憶も朧気な幼い頃から四馬路で宵闇亭を持つまでの私の記録を……。 慰めに囚人が貼ったものなのか、薄汚れた壁には煙草の広告が貼られていた。広告の中のウンザリするほどきわどい色味のチャイナ服を着た女に向かって私は自分の半生を語りかけた。媚びた風情のそんな女さえも天使に見えるほど、私の意識は朦朧としていた。 散々殴られた末にたたき込まれた石造りの牢屋の中で、私は過去を思い出す事で精一杯意識を失うまいとしていたのだ。天井に近いところに作ってある明かり取りの小窓から四月の暖かな風が微かに入ってくる。ふと雲が途切れ、そこから差し込んできた光が眩しくて私は目を閉じる。そしてまたうとうとと意識を失って行く。 (宵闇亭はどうなっただろう……) 三日も続けて店を閉めた事などない。常連たちの戸惑う様子が目に浮かんだ。スパイ容疑で連行された男の店になど誰も未練はないだろうか……と思うと、とたんに気力が失せた。 どれほど眠っていたのかはわからない。殴られたところは鈍い痛みとなっており、切れた口元の血糊は乾いてはいたが、血の匂いがゴクリと飲み干した唾に混じる。 「おい、しっかりしろ。釈放だ」 と、誰かが声を掛ける。両脇から抱えられて私は別の部屋に移された。襟元にやたら星の紋章の並んだ男が私に向かって、おざなりに頭を下げた。 「貴方の容疑は晴れました。しかし貴方の商売柄、各國人の出入りする店には我々としても注意を払う義務があり、今回の事は双方の不注意というこでご処理願いたい。貴方の保証人も事は公にしないと言う事で……」 男はツラツラと都合の良い事を延べると慇懃に去って行った。もう帰っていいと言わんばかりの態度で私を立ち上がらせたのは、私を密偵者と罵って宵闇亭から連行し、知りもしない阿片の売人の名前と、アカの地下組織の場所を吐けと殴りつけた男だった。 「あんたも人が悪いよ、妾の子か後妻の連れ子だか知らないが、セイント家の血筋のものなら最初からそう言えばいいだろう。上層部の英吉利担当の一人がアンタを外灘のセイントのオフィスで見た事があると言い出して、セイント財閥に尋ねたら身内だと言うじゃないか。こっちはとんだ大目玉を喰らったぜ」 「私の保証人というのは、ジュリアスか?」 「ジュリアス・L・セイントと署名してあったさ。それより、へへへ、殴ってすまなかったな。車でも呼ぼうか? それとも飯でも食いに行くかい?」 男は馴れ馴れしくそう言うと私の肩に手を置いた。私は男を思い切り殴りつけると部屋のドアを蹴り付けて工局部の建物を後にした。セイントの名前をジュリアスに返してから二年が過ぎている。その間に一度だけ競馬場で逢った事がある。助っ人で四馬路代表としてレースに出た時に一度だけ。縁は切れたものと思っていた。セイントの家、いや、ジュリアスの手を借りる事なくこの地で生きていると。 怒りとも悲しみとも説明のつかない思いを抱いたまま私は工部局を出た。シャツの袖やズボンの膝が破れ、束ねた髪や指先、あちらこちらに血の臭いが染みついているようで気分が悪かった。宵闇亭と工部局は目と鼻の先ほどしか離れていないのに、いつまでたっても辿り着けないような気がしていた。 |