「どうするつもりなんだ、これから先……」
「今からでも軍に戻り、城内の敵の隠れ場所を探っていたといえば俺は出世できるだろうな……だが俺はもう軍には戻らない……こんな気持ちでこの国を侵略するために働けはしない」
「軍を辞めるのか、辞めさせて貰えるのか?」

「明日の朝……上海北駅の裏にある小さな沼に死体が上がるだろう……その仏さんの着ているものや財布はすぐに浮浪者たちが剥ぎ取ってしまう……たが、仏さんは手の中に日本軍の階級章を握りしめている……。軍が俺を必死で探しているのは、俺の命が心配なわけではない。俺が知っている日本軍の情報を抗日運動家たちに知られるのが怖いのだ。拷問でも受けて俺が吐きはしないかと、それが心配なのだ。仏さんが握りしめている階級章には歯で噛んだ跡を付けておく……これは俺の部隊では全て黙秘したという合図になっている。立木勝利という陸軍中尉は名誉の死を遂げ、軍の連中も胸をなで下ろす。あんたが付け狙われることも、もうないだろう」
「何が言いたいんだ、あんたは」
「俺によく似た年格好の死体が都合できたと連絡があった。俺は明日から存在しない人間になるんだ。そして安寿とともに上海を出る」

「そんな! 陸軍中尉のアンタが殺されたということになれば、大問題じゃないか。教師一家どころじゃない、即日、軍隊が機動するんじゃないのかっ」
 俺は食って掛かったが、立木は静かに答えた。

「いや、メンツがあるから俺の死は表向きにはされないさ。言っただろう、参謀本部には二つのグループがあると。誰かが殺されても伏せてきたんだ。とくに中國人に殺されたとなると、部署の全体の恥になる。事故死と言うことで処理する。この間まで、そういう書類を俺は作ってたんだよ。だから俺の死も、誰かが事故死の書類を作るだろう。立木中尉という人間は明日からはもういない」

「それでアンタはいいのか? 中尉にまでなった地位を捨てられるのか? これから先、この國でひっそりと生きていくのか?」
「日本はもっと大それた事を考えている……中國に新しい國を作るつもりだ。日本人の為の。上海侵略はただの足場にすぎん。そしてこの國全土を手中に納めるつもりなんだ」
「満州國の噂は俺も聞いたことがある……ただの作り話ではないのか?」

「満州国……日本人と漢民族との為の王道楽土……まさに俺がこの地に工作員として送られた使命……だが俺は信じないぞ、そんなもの。その目的に向かうために何故こんなに大勢の人間が殺されなきゃならん? 目的の為には手段は選ばずか? その目的が真であるとは今の俺には思えん。俺は俺の知っている事を南京に潜伏している中國義勇軍のリーダーに話すつもりだ」
 そういうと立木は悲しそうに目を伏せた。

「それは日本軍を完全に裏切ることになるんだぞ。上海に来てたった一年なのに今まで何十年も過ごした母國の事をそんなふうに捨てきれるのか?」
「時間の長さじゃないんだ……俺が生きてきた年月よりも、もっと重くて大切なものを俺は見つけてしまったんだ。自分でも不思議だよ……」

 長い沈黙の後、立木は密かに構えていた銃をテーブルの上に置いた。

「あんたとあんたの恩人にはすまなかったと思っている」
「俺に洗いざらい話して良かったのか? 俺が今直ぐ日本軍に行ってこの話を告げ口するかも知れないと思わなかったのか?」
「これでも人を見る目はあるつもりだ。それに明日で長年親しんだ立木勝利という名とも別れなくてはならないと思うと、誰かに本当の事を話しときたくてな。甘いな……俺も」

「あんたが甘いのはさっきのセリフで判ったさ、お前を残して死なない……か。今度、俺も使わせてもらうよ、とっておきの殺し文句だ」
 そう言われて、立木は一瞬、顔を赤くし、包帯をした不自由そうな手で頭を掻いた。

「タチキ、元気で……あんたの事は誰にも言わない、約束する」
「ありがとう、あんたも元気で」

 俺が部屋から出ると、薄暗い店先で祈るように目を閉じていた安寿がハッとして立ち上がった。「女はそんな怖い顔をしちゃいけないぜ、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんがタチキと知り合う前に俺たちは出会いたかったな。幸せになるんだぜ」

 俺は安寿のほっそりとした手を取りながら囁いた。だが、安寿は強ばった表情で俺を睨み付けながら俺に言った。
「離して下さいっ。あの人は悪い人じゃないんです、お願いです、見逃して」
「安心しろ。タチキとの話は済んだよ。俺はちょっと聞きたい事があっただけだ。後で事情を説明してもらうといい」
 安寿の顔がたちまち綻びる。丸い瞳に優しさと暖かさがポッと灯ったように。

「あ、あの……胃の具合は……」
「もうすっかり収まった……今の俺に必要なのは恋煩いの薬だぜ、お嬢ちゃん……」
 胃の痛みと前髪のせいでまだ幼いと思っていた娘は、間近で見ると、レッキとしたレディと判った俺はまだ手を離さずに言う。

「離して下さい、あの私……」
 恥ずかしそうに俯く仕草が切ないほど愛おしい。立木の気持ちがよく判る。
「コホン……」
 とドアの向こうで聞こえた立木の咳払いに俺はようやく安寿の手を離して、パナマ帽を被り直して店を出た。


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