水夢骨董堂を出た俺は、誰か付けてくるものがないか気にしながら、四川中路から逸れて可南中路に入ったところで、あまりの暑さに耐えきれず、変装の為に付けていた顎ヒゲと腹に詰め込んでいたタオルを剥ぎ取り、捨てた。そして、上着のボタンをはずし、ネクタイを解いてズボンのポケットに押し込んだ。
 街の中は、しだいに中國人が増え始め、道脇に椅子を出して座っている老人たちが多くなった。もう城内なのかと俺は堯サンの残したメモを頼りに立木らしい男がいるという場所に向かった。
 だが三牌路に差し掛かったところで道がよくわからなくなっていた。あらかじめ地図で確認した通りに歩いてはいるものの、入り組んだ細い路地が俺の方向感覚を鈍らせていた。
 通りで暇そうに座り込んでいる年寄りに訊ねても耳が聞こえぬふりをされ、子どもに聞けば駄賃をせびられた上に、ガセネタだったりする。かなり近くまで来ているはずだという勘だけをたよりに俺は歩き続けた。とある長屋の前に来た時、その粗末な木の扉にかかった郵便受けに堯サンのメモにあったのと同じ路の名を見つけた。
【バケツが逆さまに置いてある麦という家が抗日運動家の集会場】

 メモの言葉を頼りに俺はその細い路地を入って行った。
 いよいよか、と思うと俺の胃はキリキリと痛んだ。そういえばここ数日は、あの日本人に張り込まれていると思うと落ち着かず食欲もなかった。この暑さも堪えている。せめて水を一杯飲みたい・・・と俺は思った。冷や水売りのいる大通りまで引き返そうかと思っていると、脇道にごく普通の民家と変わらぬ佇まいだが、カエルの絵と【胃安丸】と書かれた看板が見えた。
「あのカエルの印は確か薬屋だな、有り難い」
 俺はその店の古ぼけた扉を押し開けた。狭い店の中にまだ前髪を降ろした若い娘が突然入って来た西洋人を不審に思ったのか、いらっしゃいませも言わずに凍てついたように立っていた。

「すまない、胃の具合が悪くて……薬が欲しいんだが……」
 娘は俺が上海語で話すと少し安心したようだった。
「あ……は、はい、夕べお酒をたくさん飲みましたか?」
「いや、酒は飲んでないんだがキリキリと痛むんだ、ここんとこ忙しくてな」
「わかりました……」
 娘は壁いっぱいに取り付けられた箪笥の小さな引き出しから、二、三種類の粉薬を取り出すと秤の上に乗せ、混ぜ合わせて俺に差し出した。
「とりあえず一服だけ。もしお体にこの薬があえば、すぐに楽になると思います」
「ありがとう、すまないが水を貰えないかな、すぐに飲みたいんだ」
「お待ちください」
 娘は頷くと奧の扉に消えた。その後を追って、俺は娘の消えた扉を無造作に開けた。

「すまないが、水はたっぷりくれないか? 喉が乾いているんだ」
と俺は娘に声をかけた。そのとたん小さなテーブルの前で、水差しからコップに水を注ごうとしていた娘の手が震えた。

「水がこぼれたぞ」
 と娘に声に言ったのは、テーブルの前に座っていた男だった。色褪せて着古した地味な色のパオ姿のその男は、あちらこちらを怪我していて、とりわけ右頭部の包帯が痛々しい様子だった。


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