1927.8.27 Saturday 城内・老女宅 |
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「あれはこの前の土曜日の昼下がり……城内で……」 オスカーは、痛む傷に耐えながら、そう切り出した。 老女から預かった例の水晶玉は、いつでも返せるようにオスカーの上着のポケットに入れたままだった。さほどの大きさはないとはいえ左のポケットだけがズシリ……と重いのは、この暑さの中、不快感があった。抱えていた調査依頼も、片づく目処が付き 始め、空いた時間があったので、城内の老女の家に向かうことにした。玄関先で、水晶を返したいと言ったオスカーを、老女は、とりあえずお茶でもと居間に上げた。丁度、自分の為に茶を煎れていたらしい。それならば一杯だけ貰うとするか……と思ったオスカーに、「これから話すことを聞いた上で、それでも返したいと言うなら、それでもいいよ」と老女は言った。だらだらと長い年寄りの話を聞くのは嫌だ……と思ったオスカーは、ソファに座るのを躊躇い、きっぱりと「仕事の途中で急いでるんだよ。他人の込み入った話は、仕事上だけで手一杯なんだ。ごめんよ」と言った。 「悪かないよ、はっきりと物を断れる男は。私はあんたをとても気に入ったよ。まあ、ここにお座り」 オスカーの断りを物ともせずに、にっこりと微笑み返して老女は言う。 「うーー……」 オスカーは困った顔をしたものの、何かしら不思議な感覚に囚われて、ソファに座ってしまったのだった。 「今から二十八年ほど前、あのお方が、帝を幽閉し、まさに権力の座にその身を置いた頃のこと……」 老女が静かに喋り出す。オスカーは、『帝』ということばに反応する。 “なんだ? 二十八前っていうと……あのお方って……西太后かな?” だが、オスカーは、それを口には出さず黙って、彼女の話を聞き始めた。 「あのお方の周りには様々な係りの者がいた。身の回りのお世話をする者はもちろんのこと、諸外国の言葉の意味を教える者や、明日の天気を告げる者、吉兆を占う者もね」 老女は、そこで思わせぶりに微笑んだ。少し悲しげな表情で。 「占術師の中でも、私の師は、重きを置かれていた。なんたって彼は、あのお方のお子が帝に就かれることを、まだその子が生まれもしないうちから予見したのだから。国を左右するような大きなことも、彼に占わせては参考にされていたよ。賢いお方だったから、自分で決めたことの確認のような形で、占わせておいでだった。もしその決断が、良くないと占いに出た時でも、よくよく考えて解決策を見つけていなさったもんさ。けれどもね……」 老女は、そこで茶を啜った。茉莉花茶の薫りがふわりと漂う。 「老いとともに人は少しづづ変わってしまうもの。帝を幽閉し実権を完全にその手中に治めた後、ちょっとした家具の移動にも縁起を担いで、師を呼びつけ占わせるようになってしまわれた。 その翌年に義和団が蜂起し、外国の公使館の領域を侵略する事件が起こった。西洋諸国は連合軍を派遣し、なんとか退けたけれど、その戦乱のためあのお方や師や私も一時期は北京から避難するほどだった」 オスカーにとっては、知識として辛うじて知っている事件だった。 「師は、その時、良くない予見をした。私はその予見をあのお方に告げるのはお止め下さいと懇願した……でも、師は……それを告げた」 「信頼されてたんだろ? 良くない占いはこれまでもあったんだろう?」 老女は悲しそうな顔をして首を左右に振った。 「良くない度合いが違うよ」 「一体、何を予見したんだい? なんとなく判る気もするが……」 一九〇八年に西太后は死んでいる……たぶん、その事なのだろうとオスカーは思った。 「あのお方の死……そして、清王朝の滅亡をさ」 「ああ……そこまで見通したのか……」 「己の死の予見だけならば、まだしも……滅亡までとは。あのお方は、師に『そちは疲れておるようだ。もう一度だけ占うことを許す。明日、出直して参れ。もし……もしも、予見に変わりなくば……、そちの能力衰えたり……と言うことだ。我が王朝の終焉を語るとは、国政を乱そうとした大罪、許し難いものと心得よ』と 仰った。帰宅した師は、あのお方の慈悲深さに泣いていたよ」 「そんな! どこが慈悲深いって言うんだよ?」 「よく考えてごらん。翌日に、あの占いは間違いでございましたと言えば、それで済ませてやるぞ……と言うことだろう? あのお方も国の行く末については薄々感じておられたに違いない。だが、それを認めるわけにはいかない。他の者だったら、その場で首をはねられたかも知れない。長年、側に置いた 師だからこそ、もう一度……と。そして本当にその予見が間違いであったらと願われた……」 「なるほど……。で、あんたのお師匠さんは翌日どうしたんだい?」 「予見に変わりはない。ただ、今ならばまだ策は打てる、運命も変わりはすると助言したのだけど」 「聞き入れられなかった……だな?」 「すぐに政治から退き、幽閉している帝を解放し、国の行く末を新しい考えを持つ者たちに委ねれば……清朝はかろうじて未だ……、と。あのお方は、助言を一笑し、名のみが残って何とする、世界の中央に君臨するこの大国が西洋の 者どもの好きにはさせぬ……と。師は、そんな予言をした責任を取るべく暇乞いを申し出たのだけれど、側に控えていた宦官が、こんな予言を好き放題言わせておいて何の罰もなく暇乞いさせては示しがつかないと突っかかったんだよ。元々、重きを置かれていた 師と敵対していた宦官だった。宦官や女官たち側仕えの中には、ちょっとした粗相で、あのお方から命を絶たれる者も少なからずいたから、清が滅ぶと予見した男の命を絶たないのはどういうことかと。さらに、 師の命を絶てばこの予見など初めから無かったことになるのだと声高に叫んで……」 老女が目を伏せる。 「嫌な展開だな……」 「もう退くに退けない……。剣が師の胸に突き立てられるまであっという間だった。その時、師と一緒に側にいた私が殺されずにいたのは、師の亡骸の始末の為と、師の持つ水晶玉を館から取ってきて差し出すように言われたからだった」 「水晶玉? もしかして、これのことか……」 オスカーは、老女に返し損ねた水晶を見つめた。 「そう……。師が予見に使う玉は、この虹水晶……龍虹玉と呼ばれていて、歴代の皇帝の持ち物だったらしいよ。未来を見通す力が強いと言われていた。低位にいる占い師たちはなんとかそれを手に入れたいと考えていた。 師と敵対していた宦官も、それを取り上げて自分の懇意な占術師に与えようとしたんだよ」 「でも、これがここにあると言うことは……」 「師が死に際に私の耳元で言った。あの玉をあの宦官には渡すなと。この國に行く末を真に託せる者が持つべきものだからと。私は、龍虹玉を隠し、偽の玉を持参した。なあに、すぐにはばれやしなかったよ。用無しになった私は、文李の弟子だったからと百叩きにされた末、紫禁城から着の身着のまま放り出された……」 「じゃ、この水晶玉は一体どこに隠して?」 「胸の谷間にギュッと挟み込んでね。この小ささなら造作もないことだよ」 老女は思わせぶりに笑った。オスカーは、ギョッとした顔をした後、咳払いした。 「それから私はしばらく北京の下町の酒場女として暮らしていた。でも私だって占い師の端くれ、龍虹玉を手にした限りは、その予見の力を試してみたくなった。五年ほどの月日が流れ、 師の予見通りに國は傾いていたけれど、下町に生きて、ただ食べることすらもギリギリの貧しい者には、西洋列国との争いも、科挙の廃止も、辛亥革命ですら、あまり関係のない話……。私は、ただもう少し生活が楽になる方法はないだろうかと、自分のすぐ先の未来が知りたかった」 老女の声がそこで俄に変わった。 「龍虹玉を初めて使ってみたのさ。あのお方も既に亡くなっていたしね。もういいだろうと思って。師ほどの能力はないけれども、私にも少し先の吉兆が見えた。酒場で仲間を占って幾ばくかの身帰りにお金を貰うようになると、良く当たると噂になってね。ある日、とうとう、ある人物が尋ねてきた」 老女の顔付きからそれが良くない相手だと判る。 「あのお方の信任も厚かった袁世凱さ」 「袁……世凱」 知っている名ではあるが、これもまたオスカーにとっては、過去の歴史に登場する人物以外の何者でもなかった。 「あのお方の臣でありながら、清朝の滅亡をとっくに予見していて、師の意見もよく聞きに来ていた。私の差し出した龍虹玉が偽だと判った後、宦官たちは悔しがるだけだったが、ヤツは ずっと気に留めていて、私の事を探り出してしまったんだよ。ヤツは言った。変わろうとしているこの國を救うために、龍虹玉を自分に託して欲しいと。前から食えない男だと思っていたけれど、懸命に私を説得しようとするその言葉は、悪くなかった。 師の死際の言葉を考えても、龍虹玉は渡してもいいと」 「これを袁世凱が欲しがったのか……」 「私は、引き替えに幾ばくかの金と小綺麗な被服が欲しいと頼み、翌日にまた逢う約束した。北京を離れ、故郷にでも帰ろうかと思ってね。その夜、私は、本当にヤツに玉を渡しても良いか占ってみた……」 オスカーは、頭の中で、袁世凱の大雑把な経歴を思い出していた。結局、孫文ら革命派と手を結び清王朝を倒し、初代の中華民国大総統になった後、帝政を復古させ自ら皇帝になろうとした。実際、無理矢理、帝位に就くものの、信望を失って僅か数ヶ月後に退位し、その後の混乱の中で病死した。その他の政策に関しても、亜米利加人のオスカーから見ても、卑怯な男という印象がある。 「私が、ヤツの未来に何を見たか、判るだろう? 渡さないと言えば、ヤツは私を殺して無理矢理に玉を奪うのは目に見えている。私はすぐに北京を出た。ヤツが死ぬまであっちこっちを転々とした後、十年ほど前に上海に移り住んだんだよ」 オスカーは、老女の姿をチラリと見た。二十八年前に宮中にいたというのだから、その外見よりもずっと若く、婆さんなどと呼ぶのは失礼な年なのかも知れないと。 「あんたの名は何て言うんだい?」 オスカーが尋ねると、彼女はクックックと笑った。 「逆算して、この婆さん、案外若いんじゃないか……と思ったんだね? 可愛い坊やだねえ。私の名は知らなくていいよ。婆さんでいい。実際、六十は越えてるんだからさ。アンタよかずっとずっと年上さ」 オスカーは、言い当てられたことに対する気まずさからちょっと頭を掻きながら頷いた。 「袁世凱は死んだけれど残党がいたらと思うと、もう二度と人前で占うことは止めたんだけど、上海に流れ着いてすぐに自分の為にだけ何度か占ったことがある。……身寄りのない年寄りの暮らしにしちゃまだマトモだろう?」 老女は、居間をぐるりと見渡して微笑んだ。それは、オリヴィエたちと最初に来たときから感じていたことだったので、オスカーは素直に頷いた。 「吉と出た方角に住み、吉と出た場所で働き、得た金で馬券を買い、儲けた金で、福州路の小さな小さな店を買った。店は三年後、セイント財閥のビルが建つ時に、十倍もの金額で買い上げられて、以降、贅沢しないで食べるだけならなんとか働かなくても良くなったんだ」 オスカーは改めて、水晶玉を見た。そんな風に当たるのなら、人生トントン拍子だ、俺だって占って欲しい、ちょっと気味が悪い気もするから、袁世凱みたいに手に入れたいと は思わないが……と思った。 「そんな力があるなら、もっと……。欲は出なかったのかい?」 「この玉は、多くの悲劇を見てきたと師は言っていた。前の持ち主は誰か知らないけれど、私欲の為にだけ使い続けていると必ず良くないことが起きるのだと。人生には波ってもんがあるだろう? 予見の力を借りて、波の上ばかりを行こうとするのは、自然の道理に反することさ。いつか必ず落ちる時が来る。私が良い例さ。これを手に入れて占い師としていい目をし出すと、袁世凱に見つかっちまった。あの時、玉を渡して、金と衣服を手に入れておけば、中吉ってことで済んだろうけど、そうはしなかった。北京から地方の農村を転々としたけれど、行き倒れるようなことが無かったのも、上海での暮らしがそこそこのものになったのも、皆、この玉のお陰。これ以上を望んだとしたら、身の程知らずもいいところだ。もっと早くに私には不幸が訪れていたに違いないよ。ここまで良く持ったもんだよ」 その言い方では、まるで近々、しっぺ返しに見舞われるような言い方ではないか……とオスカーは思った。 「なあ……この龍虹玉を、ジュリアス様か緑氏に渡して欲しいって言うのも、その占いに出ていたことなのかい?」 「いずれそう遠くない未来に私も死ぬだろう。三年前、もうそろそろ、この玉を誰かに託したいと思って占ってみたのさ」 「二人の顔がこれに映った?」 オスカーが怪訝そうな顔付きで、玉を覗き込むと、老女は豪快に笑った。 「そんな顔までハッキリ見えるもんかね。暗示するものが見えるんだよ。國の行く末が感じられた……不幸な大きな流れがこの國を包んでいた。私は上海が國の要になって行くのを感じた。北京には政府があるだろうけれど、この國の礎となっていくのは、もっと強い下からの力のように思った」 「経済的なことか?」 「金の龍と緑の龍が見えたよ。金龍は天を飛び、緑龍は地を這い、二匹の龍は上海を治めていた。龍にも、野望も私欲もあるけれど、それは結果としてこの地を、大きく発展させるもの。袁のように、帝という地位を望むようなものじゃない」 「その龍のイメージがジュリアス様と緑氏だと間違いないのかい? 他にも相応しい人物はいないか?」 「それは私も考えたさ。三年前……一九二五年の正月、孫文はまだ死んでいなかった。私は彼こそがこの龍虹玉を持つに相応しいはずと思った。それなのに玉は一向に彼を示さなかった。まるで数ヶ月後に彼が逝くことを知っているかのようにね。ともかく、他の政治家の中に金や緑の龍を暗示する人物がいないか調べてみたけど」 結局は見あたらなかった……というように老女は首を振った。 「けど、ジュリアス様は英吉利人だし、緑氏は中國人だけど、確かハーフだったはずだが?」 「この國の未来を託せる人物が、中國人とは限らないだろう? 日本人かも知れないよ」 抗日運動家が聞いたら秒殺されてしまいそうな事を彼女はサラリと言ってのける。つまりはどこの國の人間であろうと関係ないということなのだろう。老女の長い話を聞いても尚、その水晶玉を突き返すことは、オスカーには出来なかった。 「判ったよ。ジュリアス様か緑氏かに渡してみる。渡す時に、今聞いた話をしてもいいかい? 緑氏の性格はあんまり知らないけど、ジュリアス様なら、受け取ってくれたとしてもたぶん引き出しの奥行きだと思うぜ」 「いいよ。たぶん、惚けた年寄りの作り話だと笑うだろうが、それでいいんだ。前も言ったけど、未来を見通す玉なんか無いほうがいい。けれど自分の手では始末できなかったんだもの。忘れ去られて、いつの間にか、ひっそりと失われてくれればいいんだ」 「ああ……判った……」 オスカーは水晶玉を再び、ポケットに突っ込んだ。 「長い話を聞いてくれてありがとう。帰りに外灘の方に寄ってご覧。逢いたかった人物に逢える相が出ているよ」 老女はニカッと笑った。 「えー、誰だろうなァ、そりゃ楽しみだ。女かい?」 オスカーは、期待しつつ尋ねる。 「それはどうだかね」 老女は肩を竦める。オスカーは、小さく頭を下げて彼女の家から出た。 老女の家から出たオスカーは、本当ならばそのまま南京路へと出たかったのだが、遠回りになるのを承知で、外灘へと足を伸ばした。黄浦江を望みながら誰に逢えるのだろうと期待しつつ、ゆっくりと歩き続けたが、それらしい知り合いにも、新しい出逢いもない。 “なんだよ、婆さんったら、とんだ遠回りだぜ” と舌打ちをしかけた時、大きな茶封筒を抱え、汗を拭きながら大股で歩いて行く男が目に留まった。ここ数日、追っている男だった。自社の情報をライバル社に流している嫌疑があったのだが、なかなかその証拠が掴めなかった。オスカーが慌てて後を追うと、埠頭に停まっていた車の窓に向かって、その茶封筒を投げ入れ、何食わぬ顔でまた歩き出した。車の方もすぐに発進した。オスカーは、すばやく車のナンバーを頭の中に叩き込む。翌日の早朝、目星をつけていたライバル会社の駐車場に同じナンバーの車を確認し、それがそこの重役のものだ判ると、意気揚々とオスカーは依頼主の会社へと向かい、一ヶ月遊んで暮らせるだけの報酬を得たのだった。 |
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